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水戸地方裁判所 昭和51年(ワ)165号 判決

原告

小沼愛子

小沼昌弘

小沼史明

右原告三名訴訟代理人

小野寺利孝

山下登司夫

二瓶和敏

戸張順平

酒井幸

友光健七

井坂啓

服部大三

安田寿郎

被告

橋本正良

右訴訟代理人

松野貞夫

中井川曻一

萩野谷興

主文

被告は、原告三名に対し、それぞれ金一一〇万円宛及びこれに対する昭和五一年六月五日から右支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

原告三名の、その余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを五分し、その四を原告三名の、その余を被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨(原告三名)

1  被告は、原告小沼愛子に対し、金三一五六万八八七四円、原告小沼昌弘、同小沼史明に対しそれぞれ金一九〇五万五四七〇円宛及びこれらに対する昭和五一年六月五日から支払済みまで、年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁(被告)

1  原告三名の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告三名の負担とする。

第二  原告の請求原因

一  (当事者)

1  被告はもと茨城県那珂郡村松村(当時)にある国立療養所村松晴嵐荘(以下「晴嵐荘」という。)に結核専門医として勤務し、その後、昭和二六年三月から水戸市天王町(後に備前町に移転)において内科ことに結核専門病院として橋本内科医院(後に橋本内科病院となる。以下「橋本病院」という。)を開院し、昭和四五年一二月に同病院を閉鎖するまで、これを経営してきたものである。

2  原告小沼愛子は訴外小沼兼義(以下「兼義」という。)の妻(昭和三一年一一月二八日婚姻届)であつて、原告小沼昌弘(昭和三三年五月一六日生)及び同史明(昭和三六年一月二四日生)は、兼義と原告小沼愛子の長男及び次男である。

二  (兼義の病歴)

1  〈省略〉

2  兼義は、橋本病院に就職して以来、少くとも昭和三七年頃までは(その間に前記のとおり、原告愛子と結婚し、原告昌弘、同史明をもうけている。)、レントゲン技術者としての業務に従事し、毎年春と秋とに風邪をひき数日休むことはあつても、特に一般の人と比して重くなるということもなく過ごしてきていたものであるところ、昭和三八年夏過ぎころから急速に健康状態が悪化し、昭和三九年一一月二八日には、ついに、被告から肺結核再発と診断される事態となつた。この間の兼義の状況は、カルテ(甲第一三号証)によれば以下のとおりである。すなわち、昭和三八年には、(一)同年八月一五日急性気管支炎、同月二一日投薬、(二)同年九月二一日急性気管支炎、咳、痰、胸部全域に呼笛性ラ音、同月二五日投薬、(三)同年一〇月一九日気管支肺炎、胸部右前、全域にラッセル、同月二二日往診、呼吸困難、咳、痰、同月二四日咳、痰、呼笛性ラ音、(四)同年一二月四日悪性感冒、粘液性痰増加、呼笛性ラ音、同月七日体温37.5〜8度、痰、同月九日体温37.5度、胸部右前下、左後全体に水泡性ラ音、同月一二日体温37.1度、胸部呼吸困難、同月一四日気管の痛み、等々の結核性とも疑われる肺疾患が一か月おきに発生し、翌昭和三九年に入つてからも(五)同年三月五日〜一〇日急性気管支炎、(六)同年一〇月八日から、疲れやすい、咳を訴える、胸部右前全域、左前全域に小水泡性ラ音、同月一三日体温37.0度、咳、痰を訴える、同月一五日、胸部右前全域に小水泡性ラ音、咳、痰が尚続いている、同月二六日往診、胸部両側前後上打診音短、両側全域に呼笛性ラ音と小水泡音、頭痛及び咳、同月二七日往診、体温37.2度、両側後全体に小水泡音、同月二九日、腹痛、嘔気、エックス線撮影等二〇日以上に及ぶ肺疾患に罹病し、同年一一月二八日肺結核再発と診断されたものである。

3  〈省略〉

4  しかるところ、被告は、昭和四一年五月二六日、兼義に対する抗結核剤の投与を打ち切り、さらに昭和四三年二月二二日、兼義の前記肺結核が治癒したものと診断した。

しかしながら、右投薬打切から、治癒の診断までの兼義の病状の経過は、前記カルテによれば以下のとおりである。すなわち、(一)投薬打切の翌月である昭和四一年六月三〇日の培養検査結果は三週間でプラス一、四週間でプラス二となつて再び陽性に転化し、赤沈も、同月二一日一八ないし三七、同年七月二二日一四ないし三五、同年八月二〇日一五ないし二八と若干悪化し始め、(二)さらに翌昭和四二年に入ると、培養検査は、同年二月二七日プラス一、同年三月二七日プラス三、同年六月二九日プラス二ないし三、同年九月九日プラス三と実施のつど陽性となつており、赤沈も、同年二月二五日二二ないし四六、同年六月二九日二三ないし四三、同年九月九日三七ないし六三となるなど、悪化した状態が持続し、(三)加えて、一般症状も同年二月七日発熱、咳、痰少し、同年四月一一日胸部雑音、疲れる、同月二八日感冒、息苦しい、同年六月二七日三八度に発熱、発汗、同月二八日疲労感強し、同年一〇月六日前胸部痛、胸部左前呼笛性ラ音、左全域に呼笛性ラ音及び小水泡性ラ音、同月一六日往診、体温38.5度、咳が強く水様痰がかなり出る、水泡性ラッセル特に左に強い、同月一九日往診、同月二四日発汗、咳、痰がまだ続いている等々の状態であつた。したがつて、このころの兼義は昭和三九年一一月に結核が再発した直前の病状と全く同一の病状を呈しており、明らかに結核が再び悪化し始めていることを示している。〈中略〉

七 (原告三名の損害)

1  兼義の逸失利益 二二一六万六四一三円。しかして、原告三名は、兼義の死亡により、右金員の各三分の一である七三八万八八〇四円宛をそれぞれ相続した。

2  兼義及び原告らに対する慰藉料

兼義及び原告三名が受けた精神的苦痛は絶大であり、これを慰藉するのに、兼義に対し二〇〇〇万円、原告愛子に対し一〇〇〇万円、原告昌弘、同史明に対し各五〇〇万円をもつてもなお低すぎると言うべきである。

しかして、兼義に対する慰藉料については、前同様に、その三分の一である六六六万六六六六円宛を原告三名がそれぞれ相続した。

3  弁護士費用 七五一万三四〇四円

八 (まとめ)

よつて、被告に対し、第一次的には労働契約上の債務不履行を、第二次的には診療契約上の債務不履行を理由として、原告愛子は金三一五六万八八七四円、原告昌弘及び同史明は各金一九〇五万五四七〇円及び右各金員に対する本件訴状送達の翌日である昭和五一年六月五日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三  請求原因に対する被告の答弁

一〜四〈省略〉

五 (被告の診療契約上の債務不履行責任について)

1  右主張却下の申立

原告らは、請求原因第五項において、被告の、診療契約上の債務不履行責任を主張している。しかしながら、右主張は、以下に述べるとおり、明らかに、原告らが故意または重大な過失により時機に遅れて提出した攻撃防禦方法であり、かつ、これがために訴訟の完結が遅延することは必至であつて、許されるべきではない。

すなわち、被告の昭和五一年一一月一日付及び同年一二月二三日の求釈明に対し、原告らは同日の第三回口頭弁論期日において、本訴請求原因につき、「使用者としての健康保持義務違反であるという趣旨で、医療過誤上の責任の主張ではない。」と述べ、診療契約上の債務不履行を主張しないことを明確にした。原告らは、右と同旨のことを昭和五二年一月二五日付釈明要求書中においても明言している。

被告は、本訴の責任論に関する原告らの主張が、右のとおりであるとわかつたものの、なお念のため昭和五二年三月一七日付準備書面(再度求釈明)をもって原告に対し、雇傭契約上の債務不履行のみを主張するのか、それとも医療行為に関する債務不履行(これはすなわち、診療契約上の債務不履行のことである。)をも含めるのかを明確にされたい旨再度の求釈明をした。これに対し原告らは、昭和五二年六月九日付準備書面第一項において、被告の義務内容は「通常の使用者に課せられるものに、さらに(主治医であるゆえに)加重された使用者としての健康保持義務」であり、被告は右義務に違反したので「労働契約上の債務不履行としてその責任を負わなければならない。」と答えている。すなわち、原告らは被告の再度の求釈明に対しても、なお、診療契約上の債務不履行責任は主張しないことを明確にしたのである。

原告らが被告に対し、労働契約上の債務不履行責任のみを主張するのであれば、被告としては、その点だけに対して防禦すれば足りるのであるから、被告の責任に関する請求原因の明確化は、被告の主張、立証方法に重大な影響を及ぼす最も重要な争点であつた。だからこそ被告は、原告が労働契約上の債務不履行のほかに、診療契約上の債務不履行をも主張するのか否かを明らかにすることを再三にわたり要求したのであるが、原告はこれに答えて、前述のとおり、診療契約上の債務不履行の責任を請求しないことを明言したのである。

しかるに、弁論終結直前の昭和五七年一一月三〇日の第三九回口頭弁論に至つて原告らは、突如として前言をひるがえし、被告と亡兼義との間の診療契約上の債務不履行責任をも主張するに至つた。このことは、前述の争点整理及び訴訟の経過からして、明らかに時期を失し、民事訴訟法一三九条に反する違法な攻撃方法であると言わざるをえず、到底容認すべからざるものである。

もし、このような攻撃方法が許されるとするならば、被告に対しても、当然、かかる新しい争点について十分な反証の準備をすることを許されなければならないものと考える。けだし、診療契約上の債務不履行の存否を明らかにするためには、被告の医師としての注意義務の程度が問題であり、したがつて、いわゆる医療水準についての事実の確定が先行しなければならないはずだからである。ところが、当然のことながら、被告は、この件については、従前、何ら立証をしておらず、反論の機会も与えられていない。この新たな主張については、具体的には、結核医学専門家の鑑定や、医療水準に関する文献の提出、さらに特に兼義の場合においては、いわゆる治癒認定・化学療法打切りに関する診断と治療方法の選択の是非が論ぜられなければならないはずである。しかるに弁論終結間際にそうした防禦方法の準備を被告に与えず、原告らが新たな攻撃方法を提出することは、はなはだしく公正を欠き、不当極まりないものであつて、絶対に容認されるべきものではないと確信する。〈以下、省略〉

理由

一兼義が、昭和二三年ころ、肺結核に罹患し、昭和二四年二月二日に、右治療のため晴嵐荘に入院し(以下「第一次入院」ともいう。)、昭和二九年四月五日略治退院(その意味内容についてはしばらく措く。)したこと、その間、兼義は左肺人工気胸術及び右肺胸部廓成形手術を受け、かつまた歩行及び作業療法を経ていたこと、その後兼義は、昭和二九年四月八日から橋本病院に勤務することとなり、昭和三七年頃までは、レントゲン技術者として、健康面について大過なく過ごしてきたこと、被告は昭和三九年一一月二八日に兼義に対し肺結核再発(その意味内容についてもしばらく措く。)の診断を下すとともに、昭和四三年二月二二日にはこれの治癒認定(この意味についても、しばらく措く。)を行なつたこと、その後兼義は昭和四五年一〇月二二日に晴嵐荘において「左肺上部に空洞形成あり、入院化学療法の必要あり」との診断を受け、同年一二月一七日から晴嵐荘に入院した(以下「第二次入院」ともいう。)が、翌昭和四六年三月六日に肺性心により死亡したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。そして、〈証拠〉によれば、兼義と被告との間の雇傭関係は、昭和四五年一二月二五日までに退職願を提出し、遅くとも同月限りをもつて終了したのであるが、兼義は同年一〇月二二日に晴嵐荘において前記診断を受けた後は、橋本病院には一日も勤務していないこと、右は晴嵐荘の入院ベッドが空くまで自宅で療養すべく休暇をとつていたことによるものであること、以上の事実が認められる。

ところで、原告らは、被告の労働契約上の債務不履行(安全配慮義務違反)ないしは診療契約上の債務不履行(その主張の適否については、しばらく措く。)による損害の賠償を求めているものであるか、右の各事実からすれば、被告が兼義に対して右各債務を負つていたのは、昭和二九年四月八日の勤務開始の日から昭和四五年一〇月二二日の時点までであると解される。けだし、使用者が労働者に対し負つているところの安全配慮義務は、労働者が現実に使用者の支配可能な範囲においてのみ課せられているものと解すべきところ、兼義は、右認定のとおり、昭和二九年四月八日より橋本病院に就業し、昭和四五年一〇月二二日から就業をやめているのであるから、この日をもつて、兼義は被告の支配可能な立場に位置しないことになつたものと認められるからである。また、診療契約上の義務についても同様であり、兼義は、橋本病院に就業すると同時に、被告との間において診療契約を締結したものと認められるが、昭和四五年一〇月二二日に晴嵐荘で診察を受けたことにより、晴嵐荘との間であらたな診療契約を締結し、以後、診療のために橋本病院に赴くことなく、晴嵐荘との間の診療に服するに至つたものと認められるから、被告の兼義に対する診療契約上の義務も、この時点で消滅したものと解されるのである。

二そこで、まず、兼義の、橋本病院への就業時(昭和二九年四月八日)から昭和四五年一〇月二二日ころまでの、病状の経緯について、検討するに、〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

1  昭和二九年四月五日に晴嵐荘を退院する、約一年前である昭和二八年五月からの兼義の病状は、そのカルテ(甲第八号証)によれば、昭和二八年七月、九月、一一月の三回の排菌検査では、いずれもマイナスであり、体温も平熱で推移しており、同年七月からは、作業療法を経て、最終段階として、レントゲン技師としての補導作業を行なつていた。そして肺活量は、同年五月から七月までが一六〇〇cc、同年八月が一八〇〇cc、同年九月から一一月までが一五〇〇cc、同年一二月が一八〇〇ccというものであつた。

また、昭和二九年二月二日撮影のレントゲン写真のスケッチ(甲第八号証)には、左肺に人工気胸、右肺に胸廓成形術を施した跡が認められるが、空洞が存在することの指摘は、両肺ともない。

2  兼義は、前記認定のとおり、橋本病院で働き始めた当初から昭和三七年ころまでは、健康的には大過なく過ごしてきたのであるが、そのカルテ(甲第一三号証)によれば、昭和三八年九月から(これ以前のカルテは証拠資料として提出されていない。)、気管支炎の症状を呈していたところ(その経過は、原告の請求原因二の2(一)ないし(六)のとおりである。)、昭和三九年一〇月二九日撮影のレントゲン写真上、右下肺野にシューブらしき影が認められたこと及び排菌培養検査により三週間でプラス三の排菌が認められたこと(なお、カルテ上、この間に排菌検査がなされた形跡はない。)等により、昭和三九年一一月二八日に至り、肺結核の再発であるとの診断がなされ、同年一二月一日から、これに対する治療がなされた。その結果、昭和四〇年一月二二日までに行なわれた三回の培養検査においては、排菌はいずれもマイナス(陰性)となり、赤沈もわずかではあるが低下し始めた。さらに、その後同年五月から七月、同年九月の四回の培養検査では、再びプラス(陽性)となつたが、同年一〇月二一日以降は、翌昭和四一年五月二六日まで一貫してマイナスとなり、赤沈も昭和四一年一月三一日の時点ではやや悪化したが、同年三月二〇日、五月一一日には著しく改善された。なおかつ、昭和四〇年八月六日撮影のレントゲン写真上、右下肺野のシューブが消失した(このこと自体の記載は、カルテ上は存在しないが、甲第一二号証の一の昭和四一年二月三日撮影((同号証に同月五日撮影とあるのは、甲第一三号証の一の記載からして誤記と認められる。))のレントゲン写真の上では、右下肺野にシューブの影はない)。そこで、被告は、昭和四一年五月二六日、兼義に対する抗結核剤の投与を打ち切り、さらに、昭和四三年二月二二日、兼義の前記肺結核は治癒したものと認定した。

3  もつとも、右投薬打切りから、治癒認定までの、兼義の病状の経過は、カルテ(甲第一三号証)によれば、原告の請求原因二の4の(一)ないし(三)のとおりである。

右によれば、兼義は、昭和四二年九月九日の排菌検査の結果において、三週間でプラス三を示しているのであるが、その後、晴嵐荘へ第二次入院に至るまでの間、排菌検査の結果を示す客観的資料はないばかりか、被告において、兼義に対し、排菌検査自体を行なつた形跡も、甲第一三号証のカルテ(昭和四三年五月六日までの記載があるにすぎないが。)上はなく、被告自身も、排菌検査をしていなかつたことを否定しない。しかし、兼義が昭和四五年一二月一七日から晴嵐荘に再度入院することとなり、渡辺医師の診察を受けることとなつた時点において、兼義は、培養検査の結果、やはり、三週間でプラス三程度の排菌をしていた事実が認められ、かつ前記のように、被告は、兼義に対し、昭和四一年五月二六日以降抗結核剤の投与を打ち切つていることからすれば、兼義は、昭和四二年九月九日以降、昭和四五年一二月一七日の間においても、継続して排菌があつたものと推認される。

4  他方、昭和四一年二月三日撮影のレントゲン写真(甲第一二号証の一)において、左肺尖部に透亮像であるとも思われる像があり、また右肺虚脱部分の中にも病巣とも思われる陰影が認められるほか、右肺中野にも繊維化した病片と思われる陰影が認められたところ、右の所見は、その後の、昭和四二年五月二日撮影(甲第一二号証の二)、昭和四三年七月一五日撮影(同号証の三)、昭和四四年七月一日撮影(同号証の四)の各レントゲン写真によつても基本的に変化が生じていたとまでは断定し難い。しかるところ、昭和四五年六月二七日撮影のレントゲン写真(甲第一二号証の五)においては、左肺尖部に著しい変化があり、左肺上区が収縮し、その収縮した中に透亮像が認められ、また右肺尖部にも、再び空洞化したものと思われる遺残空洞が現われるに至り、同年一〇月二二日撮影のレントゲン写真(同号証の六)においては、左肺尖部に明らかな空洞(5センチメートル×1ないし2.5センチメートル)が現われ、また、左第一〇肋骨と第五肋骨の交点あたり、及び左第三肋骨から第六肋骨にかけてシューブと認められる陰影が現われており、かつまた、右肺虚脱部分に遺残空洞と思われる陰影が現われている。

5  昭和四五年一〇月二二日に、晴嵐荘において、岩崎医師が兼義を診察した際、兼義は、「春ころに血痰が出た。最近汚ない痰が出る。疲れやすく、調子が悪い。」旨訴え、かつまた、レントゲン写真上、右肺胸廓成形術及び左肺人工気胸術により肺機能が低下していたことに加えて、左肺尖部に空洞と思われる陰影があつたので、岩崎医師としては、万一、右空洞から排菌があり、反対側にシューブを起こしたら、兼義の生命の存続自体が危くなるものと考え、兼義に対し、排菌の有無を尋ねたところ、既に排菌している旨の返事であつた。

そこで、岩崎医師は、排菌の事実の確認も含め、治療のための入院を要するものと診断した(甲第一号証)。なお、この時点では、同日撮影したレントゲン写真の結果はわからなかつたものであり、後日判明したレントゲン写真上の所見は前記認定のとおりである。

6  兼義は、その後、昭和四五年一一月二六日に、もう一度岩崎医師の診察を受け(その際、岩崎医師は、昭和四〇年一〇月ころ、左肺尖部に、一旦空洞が生じ、その後、閉じている((すなわち、レントゲン写真上、透亮像が見えなくなつた))ことを、兼義の持参した多数枚のレントゲン写真によつて確認している。)、さらに、同年一二月一七日、前記認定のとおり、晴嵐荘に第二次入院をし、以後渡辺定友医師の診療を受けた。

以上を要約すると、兼義は、昭和二九年四月に橋本病院に就職した当時は、排菌もなく、同病院におけるレントゲン技術者としての職務を遂行しうる程度の健康状態を有していたものであること、しかしその後、遅くとも昭和三八年九月ころから、健康状態が悪化し、昭和三九年一一月二八日に、レントゲン写真上、右下肺野にシューブらしい影がありかつ培養検査の結果、排菌が認められたこと等により肺結核が再発したものと診断されたこと、しかし抗結核剤の投与により、昭和四〇年八月ころ、右下肺野のシューブも消え、かつ、排菌も、昭和四〇年一〇月二一日から昭和四一年五月二六日まで一貫してマイナスとなつたこと、そこで、被告は、昭和四一年五月二六日に抗結核剤の投与を打ち切り、さらに昭和四三年二月二二日治癒認定をしたのであるが、他方投薬打切りの翌月である昭和四一年六月三〇日から再び排菌が検出されるようになり、以後、カルテ上、昭和四二年九月九日までプラス一ないし三の排菌が検出されており、その後も排菌が継続していたことが推認されること、レントゲン写真上においても、昭和四一年二月三日以降、一貫して、左肺尖部及び右肺虚脱部分中に透亮像あるいは病巣らしき影があつたことが認められるのであり、遅くとも昭和四一年六月三〇日ころから、左肺尖部もしくは右肺虚脱部分から排菌が継続されていた可能性が高く、したがつて、いずれかの部分に活動性の病巣があつたものと推認される。

三ところで使用者は、その雇傭する労働者に対し、労働者が労務に服する過程で、生命及び健康を害しないように、労務場所、機械その他の環境につき、配慮すべき、雇傭契約上の義務を負つているものと解されるところ、被告は兼義の使用者として、兼義に対し右義務を負つていたことは明らかである。なおかつ、医師である被告が、その従業員として、かつて肺結核に罹患し、一応就業しうる程度に治癒しているとはいえ、将来、再び肺結核を再発するおそれを有していた(耐過者)兼義を雇傭するについては、右義務の一内容として、兼義の肺結核が再発するのを未然に防止すべく、たえず、兼義の健康状態を注視し、あるいは、これが再発したときは、その病状の進展を防ぐべく、就労の禁止を含む、労働条件等について、適切な措置をとるべき注意義務を負つていたものと解すべきである。たしかに、右のような健康状態にあつた兼義の結核の再発あるいは、この進展を防止すべき注意義務は、まず第一に兼義自身に課せられていたものと言うべきであるが、このことゆえに、被告の右注意義務が否定されるものでないことも明らかである。

しかるところ、前記認定のように、兼義は、カルテ上、昭和四一年六月三〇日から昭和四二年九月九日まで一貫してプラス一ないし三の排菌があつたことが認められ、かつ昭和四一年二月三日撮影以降のレントゲン写真上においても左肺尖部及び右肺虚脱部分に透亮像あるいは病巣の存在を疑いうる陰影が存在したのであるから、このような場合、使用者である被告としては、兼義の肺機能が、そもそも極めて低い状態にあつたことをも思いあわせ、十分な病状の経緯の観察と、労働条件等への配慮を行なうべき注意義務を負つていたものと言うべきである。けだし、〈証拠〉によれば、兼義のように肺機能が極めて低下している者に、新たなシューブが生じた場合、即生命に危険を及ぼすおそれがありうること、排菌検査においてプラス三の排菌が経緯して観察されるときは、明らかに活動性の病巣が存在するのであつて、シューブを起こす可能性が高いこと、兼義の左肺尖部、右肺虚脱部分とも陳旧性の病巣であつて、活動性となつた場合、投薬によつてはその治療効果はあまり期待できないこと、したがつて、病状の回復はまずもつて、本人自身による、いわゆる自然回復力に頼らざるをえないところが大きいこと、以上の事実が認められる。右の事実によれば、昭和四一年六月三〇日以降の兼義については、左右両肺の陳旧性の病巣が活動性であるかどうかの判断が極めて重要であり、そのためには、排菌の有無、赤沈の速度等の検査が不可欠であり、活動性であることが判明した場合には、まずもつて、兼義自身の体力自体の増強をはかるとともに、労働条件等の改善をはかることが必要となるものと解されるからである。

しかるに、被告が昭和四二年九月九日以降、兼義に対し、排菌検査あるいは赤沈速度の測定等を実施した旨の証拠はないのであり(もつとも、兼義が、昭和四五年一〇月二二日に岩崎医師に対し、既に排菌がある旨述べていることは前記認定のとおりであるが、これがどのような根拠によるものであるかは明らかでない。)、また、労働条件等について、兼義に対し、何らかの配慮をした形跡も認められない(なお、原告愛子及び被告各本人尋問の結果によれば、昭和四〇年春ころ、保健所の保健婦から被告に対し、兼義を入院させた方がよいのではないかとの電話があつたこと、兼義は、昭和四二年一〇月三一日から同年一一月一一日まで橋本病院に入院した((もつともその理由は、双方でくい違つていて、定かではない。))こと、以上の事実が認められ、右事実によれば、被告自身、兼義の病状如何によつては、入院させる必要があることは十分認識していたものと推認される。)。

これに対し、被告は、「兼義に就業を継続させたのは、兼義及びその家族の生活状況をも考慮したことによるものである。」旨主張し、被告本人尋問の結果により右事実を認めることができる。しかし、被告は、昭和四二年九月九日以降、兼義に対する病状の観察が、従前よりも粗略になつたこと自体はこれを認めながら、その理由については、兼義の義務(レントゲン写真の撮影)は、本来的に、耐過者に相応のもの(質的にも、量的にも)と述べるにとどまり、それ以上の合理的に首肯できるまでの立証がないのみならず、兼義及びその家族の生活状況への配慮についても、それが場合によつて必要となることは肯定できるとしても、右は二次的なものというべきであつて、まず第一に生命、健康への配慮が要求されなければならないことは、自明である。

他方、原告らは、「兼義が昭和三九年一一月に肺結核を再発させたことをもつて、被告の安全配慮義務違反である。」旨主張するかのようであるが、以下のとおり、失当である。すなわち、前記のとおり、昭和三七年ころまでは、兼義の健康状態に何らの異変のなかつたことは当事者間に争いのない事実であり、また、兼義の仕事内容(入、通院患者及び伊勢甚等の集団検診受診者に対するレントゲン写真撮影及びその現像)が、兼義の就職期間を通じてほとんど変化がなく、むしろ、橋本病院における結核患者は昭和三四年ないし三六年ころが最盛期であつて、その後は横ばいないしは下降気味であつたことは被告本人尋問の結果により認められるところであつて、被告が、右肺結核再発の時期に、兼義に対し、特に過重な労働を要求したような形跡は全くない。したがつて、昭和三九年の肺結核再発が、兼義の橋本病院における就業の結果であると認めることはできないものというべきである。なお、被告は、兼義が昭和三九年一二月一八日に普通自動車運転免許を取得している事実あるいは、職員の山形蔵王への旅行に同行している事実をもつて、「右運転免許取得のための、あるいは登山のためによる疲労等により、肺結核が再発したものである。」旨主張する。たしかに、〈証拠〉によれば、兼義は右年月日に普通自動車運転免許を取得しており、また昭和三八年秋に従業員らとともに蔵王へ登山している事実が認められるが、これのみをもつて、兼義の肺結核再発の原因が、右取得のための疲労等のみによるものとは断定しがたいところであり、結局のところ、右再発の原因を、今の時点で明らかにすることは困難といわざるをえない。

四以上によれば、兼義の肺結核再発、すなわち、左肺尖部に明らかな空洞が現われ、また左第一〇肋骨と第五肋骨の交点あたり及び左第三肋骨から第六肋骨にかけてシューブと思しき陰影が現われ、かつまた右肺虚脱部分に遺残空洞が現われるに至り、昭和四五年一〇月二二日の晴嵐荘で「直ちに入院加療を要す」との診断を受ける病状にまで進行したこと、被告の前記注意義務違反との間には、相当因果関係があるものと認めるのを相当とする。

これに対し、被告は、「右診断の如き病状に至つた原因は、兼義自身の不節制、ことに、橋本病院の閉鎖に伴う、労使間の紛争に、自身の健康維持を省りみず没入したことによる結果である。」旨主張する。たしかに、〈証拠〉を総合すると、昭和四四年暮ころ伊勢甚百貨店から、橋本病院の敷地を買収したい旨の申込みが被告に対しなされたため、被告としては、代替地の提供を条件に、これに応ずることとし、昭和四五年一月三一日に、従業員に対し、昭和四五年限りで橋本病院を閉鎖する旨話したこと、しかしながら、その際、従業員については全員一旦やめてもらつたうえ、あらためて採用する旨話したのであるが、あらためて採用した場合の、給与、退職金、有給休暇等の労働条件につき具体的な説明がなされなかつたため、従業員に不満を残したこと、橋本病院の従業員は、神永、兼義の他は全員女性であり、かつ神永は使用者側の立場にあつたため、兼義は、必然的に従業員の中心的立場にあり、昭和三六、七年ころ結成された、従業員の親睦団体である睦会の中心的役割を担つていたものであるところ、昭和四五年春からのベースアップ交渉、同年六月からの病院閉鎖に伴う退職金等の要求に関する紛争においても兼義は中心的立場にあつたこと、昭和四五年春のベースアップ問題については、従業員側が大幅なベースアップを要求したこともあつて、前年までと異なり、同年六月一五日に至つてようやく妥結をみたのであるが、右の交渉についても、従業員側は、兼義がその代表者として、被告との交渉にあたつていたこと、病院閉鎖に伴う退職金等の要求の交渉(当初、従業員側は、雇傭契約の継続を求めていたのであるが、中途から、退職金、功労金等の要求にその方針を変更したものである。)においても、兼義が中心的役割を担つていたものであり、同年一〇月二七日に前記睦会が労働組合としてあらたに結成された際も、兼義はその代表者となつたこと、被告と従業員との間では、同年六月ころから、同年一〇月一九日に、睦会が茨城県地方労働委員会に、右退職金問題につき斡旋申請するまでの間、十数回にわたる団交がくりかえされており、兼義もこれに参加していたこと、以上の事実が認められ、また、〈証拠〉によれば、原告愛子は、昭和四五年五月、松尾由美子と共同で、松尾由美子の夫恒所有のビルの三階で、マージャン荘「借」の経営を始めたのであるが、右開店の際、兼義も数回、右ビルの三階まで上つていつたことがあつたこと、開店後約一か月位の間は、兼義が深夜右マージャン荘まで原告愛子を迎えに来たこともあつたこと、以上の事実が認められる。

右各事実によれば、兼義が、橋本病院における労働以外に、いわば私生活の面で、過重な負担を負つていたことが推認され、これが、昭和四五年一〇月二二日の時点における兼義の病状に何らかの影響を与えていたであろうことは、十分肯定されてよいところである。しかしながら、兼義は、前記認定のとおり、既に、昭和四一年六月三〇日ころの時点において、活動性の病巣を有していたものであり、この時点で、被告が兼義の病状を十分に観察し、適切な措置をとつていれば、右の各事実の有無にもかかわらず、兼義の昭和四五年一〇月二二日の病状はなかつたという蓋然性も否定しえないところである。そうすると、被告主張の右各事実によつて、被告の前記債務不履行と、兼義の昭和四五年一〇月二二日時点の前記病状との間に相当因果関係がないものとすることはできない。

他方、原告らは、「兼義が、昭和四六年三月六日晴嵐荘において死亡した事実も、被告の前記債務不履行の結果である。」旨主張するが、右主張は以下のとおり失当であると言わざるをえない。

すなわち、〈証拠〉によれば、以下の事実、すなわち、兼義は、昭和四五年一〇月二二日、既に、慢性肺性心(渡辺医師のいうところの肺性心の下地)の状態にあつたこと、慢性肺性心とは、要するに、長期間にわたる肺機能の低下により、肺の血行障害が起こり、肺動脈圧が高ずることによつて、右心室への負担が増し、これが肥大し、右心室の不全状態を起こすことをいうこと、そして肺性心による死とは、肺活量が非常に減少し、肺性心の状態にあるが、日常生活はしている者が、何らかの原因で気道に炎症等の合併症を起こすことによつて、肺活量、換気能力を急激に低下させ、肺活量が必要最低限を割り込むような状態になる結果、呼吸不全の状態となり、血液の酸素濃度も低下する等して、最終的に心不全となつて死亡することを意味すること、しかしながら、兼義の昭和四五年一〇月二二日ないし現実に晴嵐荘に第二次入院した同年一二月一七日当時の状態は、肺性心としては軽いものであり、日常生活で活動にも相当注意しなければならないとは言えるか、病気として扱わなければならない、あるいは積極的に手当を加えなければならないというまでの肺性心には至つていなかつたこと、したがつて、兼義において、入院のうえ、安静、静養を維持しておれば、十分に、少くとも病院での日常生活を維持していくことが可能であつたこと、それゆえ、兼義が入院したのは、重病患者としてではなく、普通程度の肺結核患者として第一三宿(渡辺医師担当の病棟)に入院したものであり、いわゆる床上安静を命ぜられていたにすぎないこと、兼義は、入院後も、さしたる病状の変化もなく、経過しており、この間入浴の許可も受けていたのであるが、死亡の約二週間前(昭和四六年二月一九日ころ)から急激に悪化し(もつとも、その具体的態様は、渡辺医師の記憶が不鮮明のため明らかではないが、肺性心死の一般症状を示していたものと推認される。)、同年三月六日死亡するに至つたこと、兼義は、病状が急激に悪化する直前の、同年二月一四日から同月一七日まで自宅に戻り、その間外出もしていること、兼義自身、原告愛子が同年二月四日に兼義を見舞いに行つた際、肺性心を心配しており、なおかつ、当時、心臓に対する薬を服用していたこと、右二月一四日から一七日までの間に、自宅に戻らなければならないさし迫つた事情はうかがえず、単に運転免許証の交付を受けることが唯一の目的らしい目的であり、これがために、同月一五日に外出していること、以上の事実が認められるのである。

右事実を総合すると、昭和四六年三月六日の時点における兼義の死は、昭和四五年一〇月二二日当時の兼義の慢性肺性心の状態が当然にもたらしたものではなく、昭和四六年二月一九日ころに、突然に病状を悪化させたことにより、この時点で、急激に肺活量の低下をきたし、これによつて心不全を起こし、死亡したものと推認されるのであり、かつ、右二月一九日ころにおける突然の病状の悪化は、同月一四日から一七日にかけての帰宅及びその間における外出を含む兼義自身の行状が重要な影響を与えているものと推認せざるをえない。そうであるとすれば、前記兼義の死は、兼義自身による、自からの節制を怠つた行状によるところが大きいといわざるをえないのであり、このような兼義自身の重大な過失行為が介在することによつて、被告の前記債務不履行と、兼義の死との間の法的因果関係の存在は、これを肯定しがたいものといわなければならない。

これに対し、原告らは、「肺性心による死については、肺活量が重要な影響を与えているところ、兼義の肺活量は、昭和二九年四月の橋本病院就職時から、昭和五四年一〇月二二日までの間に、加齢による通常の減少による以上に大幅な減少をきたしており、これは、被告の債務不履行による結果であるから、被告の債務不履行と兼義の死との間に法的な因果関係が存在する。」旨主張する。たしかに、前記認定のとおり、兼義の昭和二九年当時の肺活量は一五〇〇ないし一八〇〇ccであつたものであり、証人岩崎三生、同渡辺定友、同佐野辰男の各証言によれば、通常の経年による肺活量の低下は、年約二〇cc程度であるところ、兼義の昭和四五年一〇月ないし一二月当時の肺活量は約一〇〇〇ないし一〇二〇ccというものであつて、約一六年間の経年による通常の減少以上に大幅に肺活量が減少していることが認められる。

しかしながら、右岩崎証言によれば、昭和四五年一〇月二二日撮影のレントゲン写真上認められるところの、左肺尖部及び右肺虚脱部分の空洞は陳旧性のものであつて、これが活動性になつたことによつて、肺活量自体にはさ程の変動をもたらしているものではないこと、また左肺のシューブらしき影の部分についても、これによつて肺活量の著しい減少をもたらしているものでないことが認められるのであり、そうとすれば、兼義の前記のような著しい肺活量の低下は、昭和三九年に起きたところの右下肺野のシューブによるものであることの疑いが最も強いと推認されるのであるが、右シューブ発現をもつて、直ちに被告の債務不履行の結果であると、いいがたいことは、前判示のとおりである。

のみならず、既に判示しているとおり、兼義の死は、肺活量の低下すなわち慢性肺性心の状態が一因をなしていることは否定しがたいとしても、その直接の原因は、昭和四六年二月一九日ころの時点での病状の急激な悪化、すなわち、右時点における肺活量の急激な低下にあるものというべきであるから、原告の右主張は理由がないものといわなければならない。

五原告らは、兼義の逸失利益、兼義及び原告三名の慰藉料、並びに弁護士費用を訴求しているのであるが、以上の事実によれば、兼義が、被告の債務不履行によつて死亡したものであることを前提とする損害賠償請求は、これを認容することはできないものといわなければならない。

また、債務不履行による慰藉料請求権を有するのは、その契約当事者に限られるものである(最高裁昭五五年一二月一八日判決民集三四巻七号八八八頁)から原告三名の固有の慰藉料請求も理由がないといわなければならない。

しかし、前記判示のとおり、相当因果関係の範囲たる昭和四五年一〇月二二日までの間に、使用者たる被告が兼義の病状を十分に観察し、兼義に対する適切な労働条件等の改善を尽くすべき注意義務を怠り、これにより、兼義の肺結核を悪化させたものであることは前記認定のとおりであり、晴嵐荘への第二次入院の素地を形成したものと言うべく、これによつて、兼義が多大の精神的苦痛を蒙つたであろうことは十分推認されるところであり、他方、兼義側の不養生ないし被告側の及ばない行動も寄与しているなど前記認定の諸事実を総合勘案すればこれを金銭で慰藉するとすれば金三〇〇万円をもつて相当とすべきである。

したがつて兼義は被告に対し、金三〇〇万円の損害賠償請求権を有していたところ、同人は前記認定のように昭和四六年三月六日死亡したものであり、弁論の全趣旨によりその相続人であることが認められる原告三名がそれぞれ三分の一宛の相続分をもつて兼義の財産権を相続した(昭和五五年法律第五一号による改正前の民法九〇〇条)ことにより、各金一〇〇万円宛の損害賠償請求権を、被告に対し有しているものである。

次に弁論の全趣旨によれば、原告三名は本訴の提起・追行を原告三名の訴訟代理人らに委任し、その手数料及び謝金として金七五一万余円(請求拡張前の原告三名合計訴額の一五パーセントの支払を約束した事実が認められる(本訴提起当時、原告昌弘と同史明との両名が未成年者であつた関係上、原告愛子(母)が法定代理人として右約束をした、原告三名分の各一五パーセント宛の支払を約束したものと推認できる。)。しかして本件事案の内容や認容額などを参酌すれば、被告に負担せしめ得る弁護士費用としては原告一人当り金一〇万円宛をもつて相当と認める。

六なお、原告らは、予備的に診療契約上の債務不履行責任を求めているけれども本件記録によれば、原告らが当初、医療過誤上の責任を主張するものでないことを明言しながら、証拠調べの終わつた時点である昭和五七年一一月三〇日の第三九回口頭弁論において突如として診療契約上の債務不履行責任を主張するに至つたものであることは、被告主張の経緯のとおりであり、右主張は民事訴訟法一三九条に違反するものと言わざるをえないので、却下する(もつとも、仮に、被告に、雇傭契約上の安全配慮義務違反とは別個に、診療契約上の債務不履行責任が生ずるとしても、原告三名の損害額に何らの変更をもたらすものでないことは、前判示のところから、明らかである。)。

七よつて、原告三名の本訴請求は、それぞれ金一一〇万円及びこれに対する遅滞の日である本件訴状送達の翌日(これが昭和五一年六月五日であることは、本件記録上明らかである。)から支払ずみまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから、右限度でこれを認容し、その余は失当であるので棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行宣言については相当でないのでこれを付さないこととして、主文のとおり判決する。

(龍前三郎 大澤廣 新崎長政)

逸失利益計算書〈省略〉

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